新幹線での殺傷事件に思う
(以下、ほかのブログに書いたものの加筆修正版)
新幹線での事件から数週間。
犯人は発達障害があったと言われている。
成績がよく4年かかる学校を3年で卒業していることからもASDではないかと思われる。る。
もちろん、ASDだから事件を起こすわけではない。
それよりも今回は、両親が離婚し、さらに親の姓からも抜け、祖母の養子になっているというような家庭環境が影響しているように思われる。
ただ、彼が事件を起こした背景にある
「人とコミュニケーションがとりにくい」
「仕事をしたり生活するうえでコミュニケーションをとりたくない」
「一人で暮らしたい」
「死にたい」
というのは、私にはなんとなくよく分かる。
私も小さい時からみんなの輪に入る事が苦手であった。
大人になり、ASDに類推する診断が下り、今どうやって生きて行ったらいいか模索しているところである。
だから、彼のように
「コミュニケーションをとりたくない」
とか
「一人になりたい」
とか
「周りとうまくいかない。うまくいかないのは社会が寛容でないせいだ。」
と思う事もしばしばである。
そして
「誰でもよかった」
という社会に対する怒りもよく分かる。
日本でなければASDはここまで苦労しないのではないかと感じる時がある。
海外でもASDは一定数いる。
ただ、コミュニケーションの方法が違ったり、多様性に寛容な国や地域も多い。
日本は同じでなければならないという場面が多い。
幼稚園、小学校から個性がなく先生のいう事を聞く生徒がいい生徒。
できるだけ同じことをさせようとする。
社会でも大企業の中で波風立てずに粛々としている人がいい社員。
だから、ASDのようなコミュニケーションが苦手だったりすると浮きがちになる。
実は、療育をはじめとするトレーニングでよくなるというようなのも懐疑的だ。
そもそも、良くなるってどういうことなのか。
その人が幸せになるのだろうか。
結局は、その子(人)がその人らしく暮らせるというよりも、日本で暮らすのに合わせられるように教育をして、周りの都合のいい人になるだけではないだろうか。
社会が求めるいい人になるだけじゃないのかと思ってしまう。
自分らしさを殺し続けて生きざるを得ない事に変わりはない。
だから、療育やその他発達障害に関する教育に対して私は否定的意見を持っている。
(事実、事件が起きた彼は精神科にいることや、そうしなければ生きていけない自分はダメだと書いていた。
私もそう思いこの社会を残念に感じる事は少なくない。)
ASDがありのままで暮らせる社会が日本にあればいいのにと思う。
ありのまま暮らしている人もいるが、悩み苦しみながら暮らしている人も少なくない。
なぜ障害のある子どもは別の学校に行って、別の会社で働かなくてはいけないのか。
ASDであることを隠して苦しい思いをしながら暮らすか、ASDであることを公表して低い給与や待遇の差を与えられて働かなくてはいけないのか。
定型ってなんなのか。
そんなことを考えてしまう事件であった。